当時、マルユー旅館の隣には八戸で有名な大きな旅館があり電話の音がよく聞こえてきました。
私はティッシュ配りやポスター貼りを一通り終えると、電話の前で予約の電話が鳴るのを待ちました。
でも、一日中電話を待っても、鳴るのはやはり隣の旅館の電話でした。
私はとても羨ましくて、
「何時かは、隣の旅館のようになりたい。」
そう思いました。
しかし、現実は理想通りはいきません。
当時小学校1年生の息子が『どうしてうちの旅館の電話はならないの?
隣の電話はいつもなるよ!!どうしてなの?』
と時々私に聞いてきました。その言葉を聞く度に、私は本当に辛かったです。
営業を始めてから二ヶ月が経っても、お客さんはほとんどいない状態でした。
建物の借金2,700万円・毎月の返済35万円・最初にあった運転資金100万円も底をつき、当然お金も回らなくなりました。
生活するのにさえ支障が出てきて、さすがの私も路頭に迷ってしまいました。
そんな時、私の事を心配した兄が『旅館のたしにするように。』と8万円をくれました。
嬉しくて涙が止まらなくなり、本心から感謝した事を今でもはっきりと覚えています。
本当に大事な大事なお金でしたので、夜も寝ずに考えに考えて使い方を見付けていました。
そしていつものように買出しをして帰る時にふと自分の看板を見て、
『うちの旅館は隣の旅館より料金が安い、看板に値段をつけたら絶対に安い旅館に来る。』
と思い付きました。
思い立つとすぐに行動する私は、看板屋さんに電話をして『看板に3,800円と書いて欲しい。』と相談しました。
父親の知り合いの看板屋さんだったので、すぐに父親と看板屋さんが一緒に飛んで来ました。
入ってきた瞬間に『看板に値段を書くなんて恥をさらしているもんだ。』と怒鳴られました。
昭和50年頃の旅館は、看板に値段を表記することは考えられない時代だったんです。
その時代のせいで父親には怒鳴られ看板屋さんには、『長いこと看板屋をやっているが初めてだよ。止めたほうがいいよ。』と忠告されました。
色々言われましたが、真っ直ぐな考えだけが取り柄の私は値段の表記は譲れませんでした。最後は看板屋さんに『仕事の依頼をしているのは私で貴方ではない!!』と強引に値段を付けさせました。
そして、看板に値段を付けたおかげで見事に予約が増えて来ました。
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